多井でもミスるんだ!
Mリーグ視聴者を騒然とさせた、多井プロのチョンボ。
その場では多面張の見落としのように見えましたが、実際は自分の手格好を勘違いしてたのこと。
私はなんかこれで今後、いろいろと許されることが多くなった気がするのです。
まず絶対の信頼として、多井プロがあの程度の多面張の待ちがわからないということは絶対ないということ。
すなわち『なぜかしてしまった』のです。
それが今回手牌の思い違いだったわけですが、やっぱ多井プロほどの人でも起こり得るという衝撃はすごかったですね。
今後大きなチョンボも「多井プロでもやるんだし」で切り替えられるのではないでしょうか。
麻雀はミスをしてはいけないゲームなのか?
話はそこから主題へ移りますが、私は一部プロ団体の『ミスを許さない』ということを前提に作られたルールに反対しています。
フリー雀荘のルールは厳しくしていくしかない時代がありました。
ギャンブルでの勝ち方として、ラフプレーを選ぶ人が多かった時代。そうなるとミスを装ったほうがいいケースなんてゴマンとあります。
いまの一部プロ団体はそれの尾を引きすぎている気がします。
最高位戦の規則にはこんなものがあります。
第53条 罰則総則
最高位戦日本プロ麻雀協会 競技規定
1.意図的に罰則を受ける行為を行ってはならない。これに反した者は選手資格を問われる。
これがゲームはすべて性善説で行いましょうというなによりの文面です。
実際普通の麻雀なんて審判を置くのが無理なので、4人の多数決で決めるしかないのです。
でないと誤発声とか見せ牌なんて「やってない」もしくは「こいつがこうしたから」の一点張りで突破が可能です。
あとから来る立会人はグルになっていない前提でそこで事情聴取をして、決められたルールに則って裁くしかないのですから。
最高位戦だと見せ牌にチョンボがあります。
1~2枚は注意、3~4枚は小チョンボ(マイナス10ポイント)なのですが、そこの違いって意図的にやっていないならなんなのでしょうか。
牌を落としてしまったときに、河の上ならセーフで山の上だと崩れるからマイナス10ポイントってことが言いたいのでしょうか。
手牌の極めて端に手が当たるのはいいけど、そうじゃなければ許さないのでしょうか。
誤発声も同じです。
誤ロン誤ツモは大チョンボ(マイナス20ポイント)で、それ以外は小チョンボです。
なんでロンとツモだけ罪が重いのでしょうか。
悪意があるならわかります。しかし、ここでは悪意があって行われないはずです。
その後の局進行への影響という部分はよくわかります。
それが小と大の境目ということも理解しています。
ネット麻雀にすればミスが起こらないというつまらないことをいうつもりもありません。
ただここで本気で議論が行われていないと思うことがひとつあり、それはルールの工夫です。
いまの麻雀において、発声というのは『なにかをしますよ』という合図に過ぎません。
その合図で声を決めているだけなので、すべて実際には「ニャー」でもいいはずなのです。
発声周りのルールについてはこちらのコラムにそのおかしさが面白く深く書いてあるので、ぜひお読みいただきたいです。
それでもリーチ後だけはなどの話はわかりますが、この工夫もなしにヒューマンエラーにだけ罰則を与えるのが非常にどうなのかなと思います。
山を崩すということも同じです。
現行のプロルールで本来行うべきは、牌山を前に出してマナーを守る、ではないのです。
プロの対局でやるべきことがその半荘で得られる最大限の利益を追求することであれば、あの行為は現行ではリスクしかありません。
じゃあその現行ルールにあわせて本来行うべきは、牌山を崩れにくくするために山の上段を下ろすことをルールとすることです。
配牌を見る前に行えば、その段階でグチャって失敗する分にはいくらでもやり直せます。ダルいですが。
なぜここまでチョンボに関して思うところがあるのかというと、いま麻雀はエンタメとなろうとしています。
脱競技ともいえ、麻雀の上手い下手はもとより、Mリーガーやモンド出場勢のような古参プロ以外にもファンがついてきています。
もちろん冒頭の多井プロのようなゲームの進行が不可能になってしまうミスは仕方ありませんが、『普通に打っていて普通に起こり得る麻雀の実力と本質的には関係ないミス』が取り返すことのできない減点として扱われると、興ざめにつながっていくおそれが非常に大きいと思います。
麻雀は進化を重ねてきています。
あがったときに符イコール点数だった時代から、インフレが起こりました。
リーチもするようになりました。裏ドラもめくるようになりました。
花牌を抜くときに「menu!」とスポンサーの名前を発声しないといけないということも、ルールで決めてしまえば通用するのです。
麻雀はまだまだ変えられます。
そして時代がそれを求めるはずです。
団体は保守的にならず、もっと柔軟にルールを考えてほしいと願っています。