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抽選って言葉がキライだ

雑記
雑記

麻雀において『抽選』という言葉がたびたびでます。

Mリーグだと村上プロが解説で好んで使うイメージがありますね。
私の周りでも感想戦でこのワードを使ったりする人を見るので、一般的にも浸透している概念だと思います。

しかしこの言葉が私としてまったくしっくりきません。
それはなんでだろうということを、自分の中で解きほぐしたいなと思った次第。

抽選とはなんぞや

抽選という言葉を辞書で引くと以下のように出ます。

「くじを引くこと。くじ引き。」

goo辞書 – デジタル大辞泉

うーん、シンプル。

多分この抽選という言葉を麻雀において使っている人の感覚としては、両面が自分の目から5枚残っていたら、【(5枚-持たれている枚数)/残り山枚数】で当たりくじが引けるかという意味合いだと思います。

私も麻雀が実際、鷲巣麻雀のようにブラックボックスからツモ牌を1枚取り出すゲームだったら抽選という言葉になんの違和感もなかったと思います。

でも私が嫌な理由ってなんなんだろうと考えた結果、山が積まれているから抽選ではないという感覚の部分が大きいんだろうなと。

くじ引きの何が嫌なのか

私は完全にオカルトよりな人間なので、山はゲームの運命であると考えている節があります。
必要牌を食い下げられたら「うわー!」ってなりますし、不要牌が連続したあとにポンが入ると「ちょうどツモ筋変えてほしかったんだよ」ってめっちゃ思ったりします。

山というものをデジタルで割り切って考えると、例えば現行ルールで山から牌を1枚落としたときに注意等小さくても罰則があるようだったら、本来であれば確定しているドラ表示牌のみ残して一回洗牌しなおし山を積み直すというほうが罪により被害を受ける人に対して、公平さを維持できるでしょう。

その牌が残っていることは確定していますが、ツモる人がわかることを防げるので。

ただ私はこれは絶対に嫌なのです。
混ぜられる前後でツモる確率が変わっていないですが、運命が変わってしまったような気がするのです(これ含めて運命である論は、それもそれでわかります)。

ゲームとしてはツモって持ってくるまではxですが、これをシュレディンガーの牌として「牌を目視するまでは、そもそも絵柄が描かれているかどうかはわからない」と言われてしまうのは、私としてはとても納得ができないのです(それは白やん!っていうのは置いといて)。

なのでツモはくじ引きによる抽選を受けているのではなく、運命の確認作業なのです(ドヤッ

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